11月の会~教育者のファンタジー②~
今月も前回の続きを読み進めながら、何度も立ち止まって前の章を読み返す、確認しあう、話す、浸る、脱線する(?)を繰り返しました。
この章はこれまで書いてあったことのエッセンスが雪崩のように次から次へと出てきて復習に良い。
初めて参加される方にとっては何を言ってるのか分からん!
となる章です。(笑)
結局6ページ読んだかな。
この繰り返しはとても良いですね。
何度も同じようなことを話し、確認しあう、浸りあう。
それを繰り返すごとに、シュタイナーの言葉が身体の中に浸み込んでいく感覚があります。
そして集う仲間とその感覚を共有している実感もある。
これは言語化できない領域です。
でも確かに実感としてある。
その気配を感じる。
そうかー。
私がこの会を通じてやっていたのは、ヨガのサットサンガ(“師や仲間との真の集い”という意味のサンスクリット語)と同じことだったのかー、と一人興奮。
ヨガでもね、瞑想の初歩の段階は、師匠(グル)からの教えについて瞑想的に考えるというところから始めるのです。
教えについて熟考する。暫く置いておいても良い。しかし捨てるのではなく心の中に温めておく。
そして日常生活を送る(実践する)中で、教えと何かがリンクした時、その教えの正しさが立証され、本当に自分のものになる。
①「師から聴く(シュラーヴァナ)」→②「熟考する(マナナ)」
→③「日常での再確認(ニディデイヤーサナ)」
→④「知となる(ギャーナ)」
その繰り返しで内的感性が養われていくと共に、いわゆる瞑想(座った状態を保つ瞑想)も深まっていく。
こんな感じです。
ちなみにこのプロセスは、現代科学の立証手段である、
①「仮説を立てる」
→②「実験する」
→③「検証する」
→④「法則を見出す」
と同じものです。
現代科学は物質的なものを対象にしますが、何千年も前から同じプロセスを物質的ではないもの(智慧、心、真理といったもの)に適用していたのが伝統的ヨガの瞑想手法なのです。
話をシュタイナーに戻すと…
シュタイナー教育における今の私の師匠はこの入間さんの本です。
ヨガでいえば、まあ、聖典のようなもの。
この本を繰り返し読んで、熟考し、心で温め、仲間と話すことでまたその感覚が深まる。
学んだことが、まるで食べ物のように身体に消化されていく感覚。
これは一回学んだだけでは得られない感覚です。
ちょっと読んだ知識、頭で理解した理論、すぐアウトプットできるもの、ではないです。
だからこそ表にあらわれ出る時には、私の奥底から私らしさを保ってあらわれてくるのではないか。
ははぁ、学ぶとはこういうことかと気づく37歳の秋なのでした。(おそ…)
明日は立冬。
自然界はますます光は短く、闇が増す時期。
それに導かれるように私は自己の内奥深くに潜っていく。
外の闇が深まるほど内なる知の光が輝くのか。
あるいは実りの秋に、思考の果実も実るのか。
最近、瞑想的思考が止まらないのです。
さてさて、今回から松山市来住町にある向陽建設さんの一角をお借りして開催させて頂くことになりました。
向陽建設の社長ご夫妻が会に賛同してくださって、無償でスペースをお貸しくださっています。
本当に本当にありがたいことです。
天井ぎりぎりまで伸びる高い窓から光が入り、そこから見える緑が眩しい。
座った時の手足に触れる木のぬくもりは暖かく、このような素晴らしい場所で大人のための学びの場を開催できることに心から感謝します。
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